Diary 雑記

06

 記録的な暑さだったこの夏もようやく終わり、我が家にもようやく平穏が戻りつつある。

思い返せば、今年は、末期癌に侵された父をホスピスで看取ったり、我が子のように可愛がっていたパグ犬のピーナッツを病気で失ったり、猛烈なペットロスに襲われてひどく落ち込んだり、ペルシャ猫の「お菊さん」を衝動的に飼い始めたりと、私生活でいろいろと慌ただしかった。

だから今、ようやく戻った平凡な日々を、僕はしみじみと噛み締めている。

平凡で、ありきたり。同じことの繰り返しで、変化のない毎日。15年前の僕だったら耐えられなかったかもしれない。けれど僕は今、それをつくづくありがたいと感じ、その平凡さをしみじみと噛み締めている。

何もないというのは、いいことだ。

こんな平穏な日々が続くと、またベランダに出るのが楽しくなる。

妻と僕と「お菊」が暮らすマンションの部屋は、ものすごく狭いのだけれど、大きな公園に面していて眺望が抜群だ。窓から外を眺めると、まるで樹海の中に暮らしているような気分にさえなる。さらにここは10階だから、部屋の中を全裸でうろうろしていても、誰にも覗かれる心配もない。おまけにベランダが2面もあって、それが捨てがたくてここに住み続けている。

そう。ベランダだ。最近の僕はベランダに入り浸りである。

東を向いた約4平方メートルのベランダは妻の専用になっていて、そこにはハーブなどのプランターが置いてある。そして、西を向いた約6平方メートルのベランダが僕のものである。

僕はその自分専用のベランダに盆栽の鉢を並べている。

盆栽。そう。盆栽。

僕は6年ほど前から、盆栽という年寄り臭い趣味にのめり込んでしまった。

いったい盆栽のどこがいいのか?

ほかの人のことは知らない。だが、僕にとっての盆栽の魅力は、あの小さくて、極端にソフィスケイトされた植物が、僕に「時間」という観念を実感させてくれるところだ。

盆栽は小さな鉢の中で、何十年も、時には何百年も生き続ける。実際、あの吉田茂が大切にしていたというケヤキは現存しているし、徳川3代将軍家光が愛でたという五葉松さえ現存している。それどころか、樹齢1,000年なんていう盆栽もいくつも現存しているのだ。

時間・・・ベランダでタバコをふかし、コーヒーをすすりながら、僕は毎日、盆栽を眺める。ぼんやりと、ただ眺める。そして10年後、20年後、30年後、40年後のことを思い浮かべてみる。
 かつての僕にとって、時間は恐怖だった。1日ごとに人生の残りの時間が確実に少なくなっていく。それは、とてつもない恐怖だった。

だが、今は、ほんの少しだけだが違う気がする。

僕が80才になった時・・・僕はそれを想像する。その時、これらの盆栽は今よりさらに素晴らしいものになっているのだろう。そう思うと、時間が過ぎて行くのが恐怖ではなく、楽しみにさえ感じられてくるから不思議だ。

時間・・・盆栽を眺めていると、死ぬのさえ恐怖ではない気がする。もしかしたら、これらの盆栽のいくつかは、僕が死んだあとも生き続けることができるかもしれない。誰か盆栽好きの人の手に渡り、小さな鉢の中で芽生え、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をならせ続けていくことができるのかもしれない。そう考えると、すごく心が穏やかになっていくのがわかる。

受け継がれていく命・・・子供のいない僕にとって、盆栽は子供の代わりなのかもしれない。

野梅、ケヤキ、真柏、赤松、富士桜、吉野桜、八重桜、百日紅(さるすべり)、花梨、榎、銀杏・・・僕が死んだ50年後、あるいは100年後に、僕の盆栽を受け継いだ人が、「この盆栽を作った男のことは知らないが、いいものを残したな」なんて言っているのを想像しながら・・・ベランダでにやにやとしている日々です。

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