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少し前のことである。
夜の10時頃、僕がそろそろ執筆を終えようとしていた時、近くに暮らす下の弟(三男・45)から、「これから兄貴んちに行ってもいい? 面白い話があるんだ」という電話がかかって来た。
この弟は多摩地区でコインパーキングの会社を経営していて(町田の市街地だけで60ものコインパーキングを持っているようです)、今では僕よりずっとずっと金持ちである。今は会社にはあまり顔を出さず、トライアスロンの練習に明け暮れている。
「こんな時間に、急にどうしたんだろう?」と思いながらも、僕は「いいよ。おいで」と言った。
いつものように、我が家の食卓には妻がテーブルに乗り切らないほどの食事を並べていたし、ワインの貯蔵もたっぷりとあったから、弟の「面白い話」でも聞きながら、妻と3人で食事でもしようと思ったのだ。この弟もワイン愛好家である。おまけに彼は、お茶目で、お洒落で、聞き上手で、とても可愛いやつなのだ。
だが、タクシーでやって来たのは、弟だけではなかった。僕の母(75)も一緒だったのだ。我が家の玄関のたたきに立った母は、何となく、ばつが悪そうな顔をしていた。
さて、弟の「面白い話」というのはこうだ。
数時間前、母に僕だと名乗る男から電話があった。その男は母に「株で1200万円を損してしまった。妻に知られたら離婚される」と言った。
母が「えっ、弘美さんは知らないの?」と訊くと、男は「弘美は知らない」「弘美に知られたら離婚される」と、「弘美」という名を繰り返した(すぐに固有名詞を出すと、余計につけ込まれます)。
それで母は男を、完全に信用してしまったらしい。
男はいったん電話を切ったが、その後、再び電話をして来た。そして、「明日の午前中までに1200万円を用意して欲しい。そうしないと、弘美にバレてしまう」と涙声で訴えた。
その時、母は僕だと名乗る男と30分も電話で話したらしい。
その直後に、母は近くに住む弟(三男)に電話をした。
だが、弟は不在で、弟の妻が電話に出た。「お義母さん、どうしたんですか?」と訊く弟の妻に、母は「何でもない」と答えたらしい。つまり、弟の妻には僕がしでかした不祥事を知られたくなかったようだ。
その後、母は弟の携帯電話を鳴らした。弟は取引先の人々と会食中だったらしいが、その席を中座してタクシーで母の家に駆けつけた。そのタクシーの中で弟は「これは振り込め詐欺だな」と確信したようだった。
で、弟は実家で母を拾い、そのままタクシーで我が家にやって来たというわけだった。その話に僕は妻と大笑いをしたのだが……その後はちょっと複雑な気持ちになった。自分の母親がこんなにも簡単に騙されたということにショックを受けたのだ。
実は1年ほど前にも僕を名乗る男から、母に電話があった。それは朝のことで、男は「今朝、通勤電車の中で痴漢をして捕まった。会社に知られないために、被害者との和解金が必要だ」と母に言ったらしい。
その時は、「太郎(僕の本名)はまだ寝てるはずです」
と言って、母は相手にしなかった(確かにまだ眠ってました)。だから、今後も母が振り込め詐欺の被害に遭うことはないだろうと思っていたのだ。
だが、今回、母は2度にわたり、犯人と長時間話をした。それにもかかわらず、あやうく騙されそうになったのだ。週に一度、僕は実家に顔を出しているというのにだ。
まあ、母を責めても、いじけるだけなので、僕は何も言わなかった。でも、これから先のことを考えると、少しだけ気が重かった。
親が年を取るというのは、こういうことなのかもしれない。みなさんの親はまだ若いとは思いますが、もし、親元を離れて暮らしているなら、みなさんもできるだけ頻繁に実家に電話をしましょうね。