Diary 雑記

79

先月のこのコーナーで,前の小学校に通う6年生の女の子たちが毎日のように我が家にやって来ると書いた。

さて、あれから一ヵ月が経った今はどうなのかというと……女の子は相変わらず,ほとんど毎日やって来るのである。

ただ、今は大勢の女の子たちが押し掛けて来るということはなくて、毎日のように来るのはひとりだけである。

この子は最初に、第二玄関のところで日光浴をしていた「お菊」に近づいて来た12歳の女の子、Mちゃんである。

だいたい毎日,午後3時半頃になると,このMちゃんが仕事をしている僕のすぐ右側の窓から、可愛らしい笑顔でこっちをのぞき込む。それで僕は玄関に行き,ドアを開けて彼女を招き入れる。

この一ヵ月間、ほとんど毎日のように来ているので、今では彼女は慣れたものである。まるで自宅に帰宅するかのように入って来る。そして、仕事をしている僕や,キッチンで夕食の支度をしている妻を無視して,勝手にソファに座って漫画などを眺めている。「お菊」を追い回していることもあるし、トレイで髪にブラシをかけたりしていることもある。

「この家って、なごむよね」

それがMちゃんの言い分である。

最初の頃はMちゃんが来るたびに,僕たち夫婦は気を遣って,ケーキを食べさせたり,ココアを飲ませたりしていた。お客さんは歓待するというのが,我が家の方針だからだ。

けれど、今ではそんなことはしない。時々,取り留めのない話をしたりはするけれど、あとは放っておく。

そうなのだ。Mちゃんはもはや、お客さんではないのである。

漫画を読んだり,「お菊」と遊ぶのに飽きると,Mちゃんはたいていキッチンに行く。そして、妻にあれこれと話しかける。彼女は妻のことが大好きなのだ。

キッチンでのMちゃんは、しばしば妻に命令されて調理の補助をさせられている。妻に言わせると、「足手まとい」だそうだが、Mちゃんが「手伝いたい」と言うので、やらせているそうだ。Mちゃんは包丁は使えないが,野菜を洗ったり,洗った野菜の水切りをしたり、モヤシのヒゲを取り除いたりぐらいはできるようだ。

「Mちゃん、この大根,もっとよく洗ってよ」

「ちゃんと洗ってるよ」

「まだここが汚れてるでしょ?」

「このぐらい大丈夫だよ」

「まだモヤシのヒゲも、こんなに残ってるわよ」

「少しぐらい残ってたって平気だよ」

「ヒゲがあるとおいしくないから、ちゃんと全部取って」

「はいはい。わかりました」

キッチンからふたりが言い合う声が僕の耳に届く。

時折,僕は仕事の手を休め,キッチンのほうに目をやる。そして、キッチンカウンターの向こうに立った妻とMちゃんをぼんやりと眺める。

もし、僕たちに娘がいたら、こんな感じだったのかな?

そんなことを思う。

妻はといえば、邪険にしながらも、Mちゃんのことを可愛がり、彼女がそばにいることを楽しんでいるように見える。偶然なのだが,妻とMちゃんは誕生日どころか干支までが同じで,それでより近親感が湧くのかもしれない。先日は角川書店のパーティーに行く前に,Mちゃんの前でファッションショーをしていた。

Mちゃんは、一緒に暮らしている祖母と母親の話はするけれど、父親の話は一度もしたことがない。Mちゃんの母親は毎晩,真夜中まで帰って来ないらしい。彼女の自宅は知らないが,たいして広くない我が家のことを「広すぎて迷子になりそう」と言っているぐらいだから、もしかしたら、小さな家に暮らしているのかもしれない。

でも、言いたくないことを無理に聞き出す権利はないので、僕たち夫婦は何も訊かない。

さて、つい先日,Mちゃんが何となくしょんぼりとしていた。

それで僕は気になって、「学校でいじめられているの?」と訊いてみた。

すると、Mちゃんは「うん」と答えたのである。

僕はとても驚いた。子供にとっては,学校は全世界というのに近い。そこでいじめられているとしたら、大事である。

けれど、子供のいない僕には、どうしていいのかわからない。とりあえず、「親や先生に相談してみるといいよ。僕にできることがあれば何でもするからね」と言って、その日は送り出した。

その後は、Mちゃんが家に来るたびに、「きょうはいじめられなかった?」と僕は訊いている。だって、もし、それが原因でMちゃんが自殺でもしたら,大変なことである。

幸いなことに,ここ数日は、Mちゃんがしょんぼりとしているような日はない。それで僕たち夫婦は少しだけ胸を撫で下ろしている。

もし、娘がいたら、こういう心配が絶えなかったんだろうな。

そんなふうに思う,このごろである。


追伸:僕たち夫婦の行きつけのイタリア料理店、大磯町の「ヴェント・マリーノ」が11月30日をもって閉店してしまった。もちろん、日本中のイタリア料理店を知っているわけではないが、たぶん、この「ヴェント・マリーノ」は、日本でいちばん素敵なレストランだったと僕は確信している。ここの本館は明治時代の末期に豪商の別荘として建てられた白亜の洋館で、日本最古の木造ツーバイフォー建築だそうだ。

僕たち夫婦はこの店が大好きで,たいていは月に一度,時には二度も三度も食事に行っていた。僕たちはいつも本館二階の海を見下ろす特等席に案内されて,ここで担当のカメリエーレが僕たちの好みに合わせて考えてくれた食事を楽しみ(料理が運ばれて来るまで,次に何が出されるかわからないのも魅力だった)、カメリエーレがひとつひとつの食事に合うように考えて出してくれたワインの一杯一杯を楽しんでいた。大磯の花火大会も,毎年,その席で眺めた。

店の経営は決して悪くなかったのだけれど,親会社の都合で、ついに閉店になってしまった。今後,この建物は「歴史的建造物」として大磯町が保存するようだ。

夜の最後の営業日だった29日に、僕たちは店に行った。そして、今ではすっかり仲良くなった従業員たちに花束を渡し、最後の晩餐を楽しんだ。

あの店に行くのは,毎月の最大の楽しみのひとつだったのに、とても残念です。

Diary list

Diary:150〜159
Diary:140〜149
Diary:130〜139
Diary:120〜129
Diary:110〜119
Diary:100〜109
Diary:90〜99
Diary:80〜89
Diary:70〜79
Diary:60〜69
Diary:50〜59
Diary:40〜49
Diary:30〜39
Diary:20〜29
Diary:10〜19
Diary:1〜9
このページのトップへ