Diary 雑記

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幻冬舎と徳間書店への2本の新作の執筆を、相変わらず同時進行で続けている。ここ1ヵ月ほど、机に向かいっぱなしで、1日も休んでいない。

そんなわけで、もともとが何もない僕の日常は、さらに何もなくなってしまった。今月はこのコーナーに書くべきことも特にない。

なので、僕の経歴について書いてみることにする。

読者のみなさんは、そんなものには興味はないと思うが、たぶん、僕が自分の経歴について書くのは、これが最初で最後になると思う。

くだらない話ですが、時間があったら、読んでみてください。

7年も前に亡くなった父から断続的に聞いた話なので、不正確なところはあるかもしれないが……大正時代から大石家は、港区の有栖川宮公園の近く、今の元麻布2丁目のあたりで商店を開いていたらしい。雑貨と食料品を扱うような店である。

跡継ぎの男がいなかったこの家に、地方出身の鉄五郎という男が婿養子に入った。この人が僕の曾祖父である。

鉄五郎には3人の息子とひとりの娘がいた。その長男は芸者と駆け落ちして勘当され、店は次男の新二郎が継いだ。この人が僕の祖父である。新二郎の生まれは、1901年だと聞いている。

ちなみに鉄五郎の長男は渋谷区の道玄坂で、長女は中央区の新富町で料亭を営んでいたらしい。

さて、僕の祖父・新二郎はなかなかの美男子で、天皇陛下の警護を務める騎兵隊のひとりだったという。新二郎は20歳の頃に、ふたつ年上の埼玉県小川町出身の女と見合い結婚した。これが僕の祖母である(19世紀生まれの祖母は、1999年に100歳で死んだ)。

新二郎はハンサムだったが、妻は美しくなく、それが僕にも伝わっているらしい。

新二郎は経営者としても優秀で、元麻布の店は、戦前にはとても繁盛し、たくさんの従業員を抱えていたという。

僕の父・俊幸が新二郎の三男として生まれたのは1930年(昭和5年)だった。

その後、新二郎は1942年に盲腸の手遅れによる腹膜炎で、苦しんだ末に死んだ。かなり悲惨な最期だったという。

新二郎の死後、一家は元麻布の店を畳み、目黒区中目黒へと移った。

大石家は中目黒にかなりの土地と家屋を有していたらしいが、大黒柱を失って収入がないので、それらの土地や家屋を売って暮らすような日々が長く続いたらしい。

僕の父・俊幸は15歳で終戦を迎え、高校を卒業後は、土木作業員やパチンコ店の従業員など、さまざまな仕事を転々とした。本当は大学に進みたかったようだが、経済的に許されなかったらしい。

そして、30歳の時に23歳だった僕の母・光子と結婚し、中目黒の実家の敷地内に暮らすようになった。

僕が生まれたのは、その翌年の1961年。その頃はまだ、父は仕事を転々としていた。「絶望ブランコ」の英雄さんみたいなものである。僕も転々とする父と一緒に、いろいろなところに行ったものだった。

だが、僕の弟が生まれた頃に、父は従業員数人という零細企業のサラリーマンとして定職についた。その後は定年までここに勤務した。

1967年には、一家は中目黒から町田市に引っ越した。ここが現在の僕の実家である。

ちなみに、僕には2歳下と6歳下の弟、それに11歳下の妹がいる。

母方のほうについては、僕はほとんど何も知らない。

まあ、母は健在なので、聞いてみればいいのだが……僕の母は話が長い上に、横道に逸れてばかりいる人なので、もしかしたら聞かないままになるかもしれない。

わかっていることとしては……母の両親は福島県郡山市の生まれで、祖父の四郎は大工だった。曾祖父も大工だったという。

結婚後、祖父母は上京し、現在の東京都墨田区に居を構えた。ここで僕の母・光子が長女として生まれた。

僕の祖父母は、その後、品川区の西小山に転居し、ここに長く暮らした。彼らは、光子のあとに生まれたふたりの息子を幼くして相次いで亡くした。その後、戦中に次女が生まれ、戦後に三男が生まれた。

この三男は3年前に60歳で他界した。

次女・美枝子の夫は、明治大学の英文科の教授の丸山孝男である(僕は「孝男さん」と呼んでます)。

さて、僕のことであるが、僕の名は太郎という。だから、「大石太郎」が本名である(「大石圭」というペンネームは、デビューする時に、「大石太郎だといかにもペンネームみたいだから」という理由で、今の河出書房新社の編集長が付けてくれました)。

僕は6歳で目黒区から町田市に引っ越し、地元の市立小学校・中学校を卒業したあと、法政二高に進学し、その後は法政大学の英文科に進んだ。大学での成績はきわめて悪かった。

小説は高校の頃から書いていて、18歳の時と19歳の時に、当時の「野生時代新人賞」の最終選考に2度残り、「野生時代」に作品が掲載された(原稿料はもらっていません)。

ウィキペディアなどには、僕がリクルート社で編集をしていたというようなことが書いてあるが、それは事実ではない。

就職活動で実に35連敗した僕は、「週刊求人案内」という求人誌を発行していた小さな会社に入社した。ここでの僕の仕事は、編集ではなく、広告取りの営業である。

翌年、株式会社フロムエー総合企画センターという会社に転職した。この会社はリクルート社の子会社・リクルート・フロムエー社の代理店であり、リクルート社やリクルート・フロムエー社との資本関係はまったくない。この会社でも、僕がしていたのは広告取りの営業である。

結婚したのは1990年3月。妻の弘美は会社の同僚である。妻は僕の担当のグラフィックデザイナーだった。

93年に「履き忘れたもう片方の靴」でデビューしたあとも、僕は95年の秋までこの会社で働いていた。

以上が僕の経歴です。悲しくなるほど平凡で、華がないですね。

ここまで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました。もし、ウィキペディアの編集ができる人がいたら、僕の経歴を直しておいていただけると幸いです。

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